思い出の旅・フランス 前編

初のヨーロッパ旅行に感動してから、もう随分経ってしまいましたが、取材での絵の作品が18点程できましたので、10日間の旅先を作品とたどってみました。

本来であれば各所にゆっくり滞在できれば、もっと良かったと思いますが、なにしろ強行バスツアーですから、ご了承ください。

1日目は11時頃成田から、なぜかBA(ブリティシュ・エアウェイズ)でロンドンで乗り継ぎ16時間かけて南フランスのニースへ、日本との時差7時間で、夜の20時到着、宿泊。
ニースはフランス第5の都市で地中海沿岸最大のリゾート地。夏のヴァカンス・冬の避寒地として人気が高い。季節は10月中旬であり、街は落ち着いた雰囲気。

2日目からバス観光。同行の皆さんは、ほぼ60代のご夫婦で旅慣れた人たちが多い。
ニース憬れのビーチ、朝市のサレヤ広場、雰囲気だけは十分味わえましたが、ここではうまい取材できず。昼食は皆さん早速待ってましたとワインでニース風サラダを食べました。午後はモナコへ、右上の絵はニースの街と地中海を背景にバスからの景色「ニースの海岸」です。地中海沿いを東へ21km(45分)でイタリア国境に近い観光小国モナコ公国に。バスでF1グランプリレースコースとなる狭い市街を回り、モナコ大公宮殿付近で散策。右中の絵はモナコ港を左下側に見下ろす半島にある建物群「モナコ・ロンパール通り」。モナコ公国は、要所であることから成り立ちも複雑な歴史から現在に至っているようだ。

次に、ニース方向へ12km(30分)の標高427mの岩山の頂から地中海を望むエズ村へ。右下の絵は、城塞内には石造の建物が並び、隙間を細い迷路が通っている「南仏エズ村」。ここは古代ケルト人に造られ、地理的に優れた場所としてかずかずの権力争いに巻き込まれてきた。紀元前から続いたローマ帝国の支配が弱まる7~8世紀頃に異教徒の襲撃が相次ぎ、山頂にこの堅固な城塞都市を築かれている。1860年よりフランス領となった。この入り組んだ街並みと絶景がポイント。また、この地方の気候から、香水の産業が栄えている。この後ニースへ戻り、夕食は魚料理であったようだ。

3日目は、少し内陸を西へ207km(3時間)走りマルセイユへ。古くは紀元前から港町として栄えるフランス第2の都市。旧港付近を歩いて観光し、港に面したテラス席でチキン料理のランチ。右の絵はそのレストランでの食前の光景「マルセイユ・レストランより」。港を挟んで正面の高台には、午後に行く予定の寺院が見える。

1時間程でバスへ戻ると2人の方が盗難にあったことがわかる。被害は、高級化粧バッグと男物上着。南からの移民も多く治安が悪いことは知らされており、バッグもクサリを掛けていたが切られていた。(バッグの中身は飲み物のみ)侵入口は、中央乗り口横の運転手仮眠室の小さいドアから入り、車内へとのことだった。(盗難も保険による処理を数時間後には済ませていた。)

さて、午後は高台からマルセイユの街と地中海を見渡せ、漁の無事を見守ってきたマルセイユの母なる寺院「ノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院」19世紀中ごろに建てられたビザンチン様式の美しい寺院。港や街のいたるところから望めるシンボル的存在。右中の絵はこの寺院から眺めたもの「思い出の旅」。ここはこのツアーでも南仏らしい印象深い景色であった。

続いて、北へ30km(30分)エクス・アン・プロヴァンスへ、古代ローマ人によって紀元前2世紀初頭に造られた街。「エクス」とは水を意味し、ローマ時代から温泉の街として知られていた。
あらゆる場所に噴水が見られることから別名「千の泉の街」と呼ばれる。また、画家セザンヌが生まれ育ち、生涯を終えた場所である。その彼が眠るサン・ソーヴル大聖堂を観光し、近くの広場が、前ページ右下の絵は観光客が多いところへビジネスらしき女性が通りかかった「アルルのひと」。プラタナスの大樹の多い街で、美しい目抜き取りといわれるミラボー大通りを中心に古い館や数多くの噴水が点在し、優雅で洗練された雰囲気が漂う古都である。

3時間程の散策観光後、夕食はプロヴァンス料理だったようだ。
一つ残念だったのは、街の東10km程にセザンヌがよく描いたサント・ヴィクトワール山があるのだが、バスから見ただけで取材ができなかったことである。

4日目は、西方向へ80km(1時間45分)アルルへ。紀元前にローマの植民都市として繁栄、この頃に造られた古代の遺跡、円形闘技場や古代劇場が街なかに点在している【世界文化遺産】。再建された部分もあるのだが、ローマ時代の遺跡が予期しないところで出会い驚きであった。また、アルルは、ゴッホをはじめ多くの芸術家が創作意欲を抱いた場所である。ゴッホが通い描いた「夜のカフェテラス」カフェも復元されて営業している。
右上の絵は、ゴッホの有名な「跳ね橋」ですが、元の場所の近くに復元されたものです
次の、右下の絵は、跳ね橋の反対方向を望んだ景色です

続いて、北上38km(45分)ポン・デュ・ガール【世界文化遺産】へ。地中海へ注ぐローヌ川の支流ガルドン川に架けられた、ローマ時代の巨大な水道橋で北のユゼフから南のニームまで50kmつないだ水路の一部。

現在ほぼ完璧な姿で残っているのは全長275m(高さ49m)のこの橋のみで、紀元38年から52年の間に建造され、500年にわたり毎日2000万?以上の生活用水を運び続けたが、水路内に溜まった石灰が水質汚染し、使用中止に。その後18世紀には下層部土台のアーチ部分が増築され、20世紀まで幹線道路として利用された歴史をもつ。

右の絵は、ポン・デュ・ガールへの小道で「ポン・デュ・ガールにて」

観光も4日目ともなると新たな発見・感動が多く、取材にのめり込みツアー同行者とも離れることしばしばとなり、心配する妻も御機嫌斜めとなり、この後は自由行動を少々自重することとする。

次は、東へ25km(1時間)アヴィニヨン【世界文化遺産】へ。昼食はラタトゥイユ(夏野菜の煮込み)、食後は、アヴィニヨン民謡にも歌われるサン・ベネゼ橋へ、ローマ時代に重要都市だったアヴィニヨン。12世紀建造のこの橋はローヌ川下流に位置し地中海沿岸と北方の街をつなぐ通商の要として発展。13世紀に十字軍との戦いで街とともに破壊された。再建されたが17世紀のローヌ川の増水で半壊し、今の姿となり残っている。 その後法王庁宮殿を観光。
ここで南フランスとお別れしローヌ川沿いに北上してゆく。

このバスツアーで気が付いたことですが、日本の観光バスは乗降口が左前一ヶ所ですがフランスの観光バスは(車は右側通行)右側の前と中央の二ヶ所ある為、乗り降りが非常に楽に感じた。また自販機がないので、バスに水のペットボトルを常備(1ユーロで)している。乗客は1日毎に中央口を境に前と後の席を交代していた。また、日本人添乗員と運転手はそれぞれ一人の方が最初から最終日まで続けて勤務されていたこと。

4日目午後、アヴィニヨンからローヌ川沿いに北上230km(2時間45分)リヨン【世界文化遺産】へ。この街はローマ時代に植民都市が置かれ、南北ヨーロッパを結ぶ拠点として栄え、中世には印刷、絹織物などの産業で発展を遂げた。街には昔のままの街並みが残っている。また、滋味な野菜やキノコ類、川魚、ジビエ、チーズなど食材が豊かで、美食の街として有名とのこと。

ちょうど街に到着した時間は日が沈むころ、街の西側にあるフルビエールの丘よりリヨンの街が夕日に映えて紅く染まっていた。

[後編に続く]

思い出の旅・フランス 後編

いよいよ旅も5日目、今日は長旅となるため7:30出発、これよりフランス中央部へ向かって北西方向に308km(5時間) ブールジュへ。フランスは各地にワインの産地があるが、中央部は何度か川を越え、延々と農耕地の丘陵地帯が続き、フランスは農業国であることが分かった。

ブールジュへは、昼過ぎに到着、昼食(魚料理)後、6万人程の静かな都市に立派なブールジュ大聖堂【世界文化遺産】へ、途中には、日本の朝市のような日曜市が開かれ、街の生活の様子がうかがえた。11世紀に造られ12世紀末にゴシックに改装された大聖堂。特に12世紀末~13世紀に作られたステンドグラスが美しい。ちょうど日曜礼拝が終わったところを観光、外では礼拝後の人々の落ち着いた雰囲気が漂っていた。右の絵は、街なかを穏やかに流れる川面「ブールジュ」

この後、西方に133km(2時間45分) アンボワーズへ。ここはフランス中西部に位置するロワール地方。中央を流れる国内最長のロワール河に沿って数々の街が栄え、流域には「フランスの庭」とされるほど風光明媚な土地が広がる。(西方250km程には、ロワール河口大西洋がある。)中世にはこの豊かな土地で狩猟を楽しむために王侯貴族たちがこぞって優雅な城を築き、栄華を極めた。河と城が織りなす美しい景観は、今でも多くの人の心を魅了している。その一つがアンボワーズ城。15世紀以来8人の王がこの城の城主となり、なかでもフランソワ1世の時代に全盛期を迎えた。この時期にルネッサンス芸術に感動し、偉人レオナルド・ダ・ヴィンチを招いた。結局ダ・ヴィンチ終焉の地となり、墓碑や遺品が残されている。この右の絵は、ロワール河畔の街「アンボワーズ」。この街でもちょうど秋のマラソン大会が行われたようで、多くの街の人達と観光客が楽し気に過ごしていた。

夕方となり今日はここを最後に宿泊地、西方に25km(30分)トゥールへ。いざ夕食へ、いつになく野菜の多い美味しそうな肉料理だったと思う、いつものようにワインを一口飲んだところで、みぞおちあたりが重く一斉食事ができなくなってしまい、そのまま部屋で休まざるをえなった。この日を振り返ると、昼食の魚料理で、鮭のフライとたくさんのポテトフライの大量の油が原因だと気が付いた。(これ以降、油の多いものは控えることや、薬を常備している。)

さて翌朝6日目は何とか体調回復、北西へ343km(4時間)のモンサンミッシェル【世界文化遺産】へ、バスで8:30出発、フランスの10月は日の出が遅くまだ暗い、間もなくロワール河を渡る、右の絵はその時の風景「ロワール河の日の出」。なぜか、飛行機雲がたくさんかかっていた。この辺からは草原(牧草地?)が続き、間もなくル・マンと地名がある、あのル・マン24時間レースがこの近くで開催されていることを想像していた。

その後3時間ほど走ると大西洋に近づく頃、牛が放牧された草原が続く地平線の靄の先に岩山のようなものが見えてきた。徐々に近づくにつれ目的地であることが分かる。

まず観光の前に昼食は、独特の方法で卵を泡立て、たっぷりのバターで焼き上げたふっくらとしたオムレツ、元は疲れ果てた巡礼者たちの体を癒すためにある夫人が考案したもの。

さてモンサンミッシェルは708年オベール司教が聖堂建築に着手、966年修道院建設、1017年修道院内の教会建設、以降も何度となく建築を繰り返し、1789年フランス革命時には監獄ともなり、1300年の間、巡礼地だけではなく要塞や牢獄としての数奇な歴史を持つ。幾重もの門を入ると修道院への狭い参道、巡礼者たちに宿・食事・店を提供。今も両側にぎっしりと木組みの家に趣のある看板、風情がある。曲がりくねった石段を登りながら、教会・修道院他を回る。建物の構造も時代とともにロマネスク様式・ゴシック様式と混在している。2時間ほどではとても見切れないポイントの多さ。

上のテラスからは、西にブルターニュ、東にノルマンディーを見渡す過去の歴史を想像させてくれる不思議な眺望。

本来、島であり干潮時だけ渡っていたようで、今は道路がついている。近年回りに堆積土が多くなったため、道路を橋梁化工事が進められていた。右上の絵は、午後4時頃干潮時のモンサンミッシェル「モンサンミッシェル・10月の午後」

今日の最後は、西方へ52km(1時間15分)サンマロへ、ここの旧市街はイギリス海峡に面したブルターニュ地方の城壁に囲まれた港町。城壁(東西400m南北600m)の中に入るとパリの街を凝縮したような洗練された街並みであることに驚いた。この地は公海の要所として通行料を課したり、カナダの発見者がここから航海したり、広い範囲から富を持ち帰った。現在では、夏季の観光地として栄えている。 今夜はこの街の近くで宿泊。

7日目は北東へ230km(3時間30分)オンフルールへ、途中カーンという街を通りましたが、この周辺は、ノルマンディー上陸作戦後の激戦地となり、フランスの民間人だけが多数犠牲になり、街は灰燼となり、再建に14年間費やされたとのこと。

まもなくオンフルールへ、ここはセーヌ川河口の三角洲地帯をイングランドとの攻撃・貿易から守るための重要な港町。観光の町としても知られ、旧港風景は印象派の絵画の題材ともなった。印象派画家に影響を与えたとされるウジェーヌ・ブータンや、現在のイージーリスニングのルーツのような存在エリック・サティの生地でもある。右の絵は、雨模様となったが落ち着いた旧港「小雨のオンフルール」。ここは古い木造建築、フランス最古最大の船大工による木造教会、木造の街並みが多く残っている。昼食のレストランも木造の狭い2階でポーク料理であった。

さて午後は、いよいよ最終地・東南東へ192km(3時間)パリへ、農耕地が広がる丘陵を走り、近づくと徐々に建物が多くなり、パリの街並みに入った。するとバスは凱旋門(高さ50m)のあるシャルル・ド・ゴール広場を一回りして、パリのシンボル、エッフェル塔を眺めるためにシャイヨ宮テラスへ、ここはセーヌ川を挟んで全景を眺めるには良いらしい。塔へ登ってみたかったが。次に、右の絵はコンコルド広場を一回りして、シャンゼリゼ大通りを見通し遠くに凱旋門、左の柱は広場のシンボル・オベリスク「小雨のシャンゼリゼ大通り」

今日最後は、1893年創業のデパート(ギャラリー・ラファイエット)、ヨーロッパ最大の総面積と売上、歴史的建造物のドーム型ステンドグラスをもち、良き時代の豪壮で華やかな店内を演出している。店内ギフトショップを案内され店を出ると、土砂降りの雨。バスからの雨のパリは、忙しなく夜の光が反射しにじみ、絵になるテーマなのだが、残念ながらうまい取材ができない。しばらく走って郊外の宿へ、夕食はチキン料理。

ところで一度も朝食に触れなかったが、フランスに来てからのホテルの内容は、ほゞ一緒で、硬いフランスパンがメインであるが甘いパン等もある。野菜サラダ。卵料理はあまりなく、ハムとチーズは種類も多く特に美味しい。果物は南と北で少し変わる。飲み物は日本と同様であった。

さて8日目はパリ自由行動日(この旅のほゞ最終日)。昨夜の雨は上がり今日午前は、ルーブル美術館半日ツアーへ、バスではなく、最寄りの駅より地下鉄で15分ほどでパリ市街へ、このツアーは、ルーブル美術館の主だった所蔵品を2時間半程で案内してくれるもの、映像等でよく目にする原画を見ることができ、感動するのだが、何しろ混んだ会場を通り過ぎるように案内され、感動に浸る余裕はない。終了解散時には自由に鑑賞が可能であり、小作品で気に入った作品を鑑賞することはできる。また、大作の模写を会場でやられているのも珍しい光景であった。右上の絵は、入場前の朝の様子「雨上がりのルーブル前」

昼過ぎまで鑑賞し、これまでフランスの食事だけで来ていたので、聞いていたラーメン屋へ、味はほゞ日本と同様で、ほっと一息といったところ。

さて午後は、セーヌ河(左岸)対岸のオルセー美術館へ、。右下の絵はセーヌ河に架かるロワイヤル橋での、去った雨雲と家族が印象深い「家族・パリ」。美術館は1900年のパリ万博開催に合わせて造られたオルレアン鉄道のオルセー駅舎が美術館の前身。駅舎時代の面影を残した現在の建物が1986年に完成開館。1848年から第一次世界大戦(1914年~1918年)までのフランス美術が所蔵されている。特に興味がある印象派絵画が充実しており、良く印刷物で見ていた作品が数知れずあり時間を忘れてしまう。後ろ髪を引かれる思いで後にすると。雨上がりの太陽がまぶしい。

時刻は間もなく17時。セーヌ河岸【世界文化遺産】(エッフェル塔のところからノートルダム寺院の先の8km区間)をオルセーから上流へ歩くことに、対岸はルーブル美術館が続いている700m程にシテ島の手前に歩道鉄橋のポンデザール(橋名)がある

ここで右の絵は若い二人が南京錠を取り付けようとしている。一時縁結びを願う習わしとして行われていた。(2015年頃には重量オーバーで中止し、欄干部分を透明板に変えられました。)晴れて虹が出た。中央背景には、パリ独特の石灰岩のヌフ橋や建物群とサンジャックの塔、右にはノートルダム寺院のあるシテ島の一部が見えます「パリ・ポンデザール」

さらに行くと、シテ島のノートルダム寺院の威容が見えてきた。近づき正面へ、ゴシック建築を代表する建物。200年あまりの歳月をかけて1345年に完成。以後何度も修復を繰り返している。また、この地はパリから各地への距離を表すときの起点となっている。(日本でいう日本橋)。対岸を進み側面から背面へ回り全容を眺めた。

なお、残念ながら昨年4月の火災により、中央の尖塔を中心とする建物が消失してしまっている。また、素晴らしい姿で修復されることを祈りたい。

日も低くなり、いよいよ最終のパリに名残惜しく街を見渡しながら、地下鉄駅へ向かった。今晩は、帰り支度が待っている。

9日目は、朝早くからパリ・シャルル・ドゴール空港へ、また通関の厳しいロンドンで乗り継ぎ成田へ。

10日目、朝9時頃、行きより1時間早い15時間で成田国際空港に疲れと時差ボケの状態で到着。

この旅は、南仏からパリまでのフランスを縦断するようなバスツアーですから、もっと時間が欲しい、季節、天候による光の具合が思い通りに行かない等多々ありましたが、限られた期間ですから、良かったとしましょう。可能であれば再度とも思っていますが、どうでしょうか? まだ、絵になりそうな風景材料がありましたので描いていこうと思います。いずれまた、下記のHPへ掲載いたします。

なお、マップを見ることが好きなのですが、今ではグーグルマップやストリートビューで世界中の様子を見ることできるため、行った場所、いったことのない場所を想像するのも、おもしろいです。

以上で終了ですが、最後まで読んで頂きありがとうございます。

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